説教出エジプト6章
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説教出エジフト7章

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川西聖書教会 主日  礼拝説教  要旨       1998年  7月 12日   

聖書箇所    旧約聖書  出エジプト記   6章 1節〜30節     説教題 「御心を知りましょう。」

説教者  川西聖書教会  牧師  森脇  章夫

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礼拝説教要旨  

    神様の御心について聖書は大切な事を教えている。それは「啓示の漸進性(ぜんしんせい)」

です。大変難しそうな神学用語ですが意味している事は簡単です。「人間に啓示(開き示される

神様の御心)は時間の経過と共により明白にされる」という事です。

    出エジプト記の6章3節にあるように アブラハムの時代には神様ご自身を 「全能の神」と紹介

しそれから約500年後になって初めて主(救い主)と言う形で神様は人間にご自身について教育

の過程を進められた通りです。逆に言えば人間が神様の事をひとつ学ぶのに500年の歳月が

必要であったと言えるでしょう。

   f啓示の漸進性は言葉の印象では難解なことのようですが、実際の私たちの生活に当てはめ

るとごく普通の事です。

    神様が人間に様々な事を教えられるのは「一度に全部」ではなくその時々に応じて必要な事だけ

を教えて下さると言う事です。私たちは行き詰まったり大きな問題に直面すると自分ではどうする事も

出来ない事を思い知らされます。しかしどのような場合であっても本当にどうにもならない窮地と

思っても案外本当の窮地まではほんの少しのゆとりが有るものです。そこで諦めて何もしないと

本当の窮地になってしまいます。しかし諦めないで最後の最後まで頑張ってやってみるとだめだと

思った直前に新たな場面展開が起きて新たな局面が開けたり、問題が解決する経験をした事が

有るのではないでしょうか。「窮すれば通ず」などと申しますか、そこで神様を信じて前に進む事を

教えているのです。逆に言えば人間は窮地に陥れなければ神様を認めようとしないのです。

    神様はそのような人間の本質をご覧になってあえて人間に窮地を与え神様を信じなければ

神様に助けを求めなければ人間の能力や力ではどうする事も出来ない事実を人間に認めさ

せようとしておられるのです。

   人間は自分の能力の及ぶ範囲内では決して神様を神様と認めようとしないので、神様は

いたずらっぽく人間に試練を与えてどこまで強情を通すのかを試しておられるのです。

   ですから人間はそこまでいかないと、神様の実力を認識できません。人間が完全な絶望に

直面し自分ではどうにもならないと知ってもそれが自分能力ではどうにもならないと

認識出来るまでは決して神様の道は開かれない仕組みになっているのです。

    それを遠くで見て諦めてそこまで行く事をしないとその問題や扉は永久に閉ざされた

ままなのです。しかし諦めないで無駄と思いつつもやっていくと不思議と問題や窮地の

向こう側に新しい世界を見いだす事が多いのはこういう理由によっているのです。

    啓示の漸進性とはこの様な事を意味します。ですから、神様は人間に対してその全

ての意義や解決方法を一度に全部教えて下さる事はありません。

   今、取り会えず今出来る事、やるべき事を示されるのです。そうしてそれを終えると

次を教えて下さるのです。

     神様が人間に要求されている事を人間が知り、それを従順に行ったなら、神様は次ぎの段階

に進むべく新しい道をその時に開いて下さいるです。

    ですから私たちが分からないからとか、どうせ無駄だからとタカをくくってなにもしないでいると

いつまでたっても神様は問題の解決の糸口をおしえて下さいません。

     ま八方塞がりでどうにもならない状況でも、今やるべき事を着実にやっていれば、神様は

その努力をご覧になって今取り敢えず出来る事を全てやってしまうと、新しい道がその向こうに

開けると言う事を聖書は教えているのです。

   これが神様の御心について第一に知っておくべき事です。

    さて第二に知らなければならない事は「神様の御心は誰も理解出来ない」と言う事です。

今日の箇所でも明白なように、語っているモーセ本人ですら自分の思っていた事と神様がなさる

事が相違していたのでずいぶんと苦しみました。語られたエジプト王パロには絶対に許容出来

ない事でした。

     また神様が救い出そうとしていたイスラエル人自身も全く神様の言葉に聞く耳をもちませ

んでした。ここに明白な結論を引き出す事が出来ます。神様の御心はどうも人間には理解できな

いもののようです。いやむしろそれが当然なのだと言う事です。

    これを分かりやすくたとえで説明してみましょう。

  私たちは科学の進んだ時代に生きています。科学を知らない人は科学で何でも分かっていると

思いがちですが、実際は全く反対です。どうして宇宙が存在しているのか?   生命とは何か?そういう

高度な事は勿論、どうして植物が水と光から有機物をつくり出すのか光合成の仕組みさえいまだに

分かっていません。人間が分かっていない事はそればかりではありません。

     歴史の分野でも、現実の経済や社会学や勿論宇宙や地球やお天気の仕組みすら分からない

事だらけです。最近進んだと思われている生物学や遺伝子の問題なども分からない事だらけです。

証拠に遺伝に影響する環境汚染物質がどれかさえも誰にも分からないではありませんか。

    人間が分かったと思っている事でもすぐに分からない事が明白になります。一番進んでいると

言われる分子や原子の世界も問題が解決されるとさらにその向こうにより難解な問題が

提起され一向に解明される様子はありません。中間子やクオークの存在やその性質について

分からない事だらけです。今から50年前に原子の秘密を知って原子力エネルギーに人類の英知に

満足していた人がいたとしても、現在の科学や遺伝子の知識から見ればお粗末な限りです。

 現在の最先端の科学的成果も、10年もすればほとんどが過去の一時的作業仮説にすぎなく

なる事でしょう。

     人間のすることはどこまでも有限なのです。  このように有限な人間の知識に対して神様が

完全な知識を与えられたとしてもそれは人間には理解不可能な事なのではないでしょうか。

     神様が人間に全ての事を明らかに示されないのは神様の側に問題があるのではなく。

人間の理解力や知識、受容の限界に原因が有るのです。

    言い換えるならば、いくら人間が完全な理解を求めたとしても、神様の側から言えば、完全な

御心の情報を人間に与えても人間には所詮理解する事もそれを受容することも出来ない現実が

人間の能力の明白な限界がある事を考え認めるる必要が有るのです。

   ですから、この聖書の箇所にある通り神様の意思(これをキリスト教用語で御心と言う)は常に

人間には理解することができないのはごく自然で当たり前の事なのです。

   ですから実際に神様が御心を示されたこの時、語るモーセも聞いたエジプト王パロも当事者

である神様が救おうとされたイスラエル民族も結局神様の御心を理解できなかったのです。

しかし、だからと言って御心を理解しないでいる事を聖書が勧め教えているのではありません。

興味ある事にこの三者は三様の行動を示しました。神様の御心を聞いたパロは

積極的に御心を拒否し敵対行動取りました。またイスラエル民族は神様の御心を聞きましたが

消極的な態度をとりその言葉を聞き入れ従おうとはしませんでした。またモーセその人も

神様の言葉に対して文句を付け、断り逃げ出す事以外考える事はしませんでした。

     いずれの人間も神様の御言場、御心に対して拒否反応を示しました。

    最初の人間アダムとエバ以来全ての人間に共通した現実がここに記されているのです。

しかし、だからといってそれで全てが終わりなのではありません。その後を見なければなりません。

    御言場に積極的に逆らったパロは自身はに、その行動が彼に破滅を招きました。

どこまでも御言場に不従順を貫徹したイスラエル民族は神様の約束された

祝福を意味するカナンの地に行く事が出来ずに荒野で非業の死を迎えました。

そうして無理やり神様の言葉を承り、不承不承語ったモーセも地上で何の報いも受けずに

死ななければなりませんでした。

      全ての人間が御言葉に従えないので神様の定めである死の刑罰を受けなければならな

かったのです。しかし聖書はそれで人生が終わったと言ってはいません。

    聖書はそれぞれが地上で行った行いに応じた報いを死後の世界で神様から報酬として

受ける事を主張しています。当然の事として神様の言葉に積極的に反逆したパロにはそれ

相応の刑罰があります。死後の世界で聖書の示している永遠滅びの宣告をと地獄の永遠の

苦しみを今受けている事でしょう。

       また常に不従順であったイスラエルの民を思う時に果たして何人が地獄に落ちる事を免れ

天国に入れて戴けたか疑問です。

      しかし、最後まで無理やりでしたが御言葉を託され、人々の批判や不評の中を忍び通した

モーセには神様が報奨をお与えになった事は間違いありません。

    これらの事から、こう結論する事が出来ます。神様はあらかじめ選んだ人々を祝福に与からせ

また同時にあらかじめ選んだ人々に災いを備えられたという事です。

新約聖書のローマ人への手紙9章 16節

「従って事は人間の願いや努力に夜のではなく、哀れんで下さる神によるのです。」

やとある通りです。私たちも全ては神様から出発し神様に栄光が帰される事をしっかりと認識して

神様柄自分に与えられたものを受け入れ、さらに良いものを神様が与えてくださるように

願うものになろうではありませんか。

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