マタイ20章1-16節
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マタイ20章17-19節

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主日礼拝説教  1999年 1月 24日 

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説教箇所 新約聖書 マタイの福音書 20章 1節から 16節 

説教者  森脇章夫 (川西聖書教会牧師)    説教題 「何を信じていますか?」

説教要旨

  裕福な青年が天国に入る資格を断念したことに対して使徒ペテロは自己犠牲を自慢した。

その不条理さを諭す為に主イエスは天国と地上の犠牲の関係をブドウ園の労務者と報酬に

例えられた。

  当時は日の出と共に人々は労働した。ブドウ園の主人が炎暑の季節に午前4時に雇った

労働者と午前9時や12時さらには日没直前の午後6時に雇った人々の賃金を同額に支給

したたとえである。

  一見、理不尽に見える。15時間労働と1時間労働の報酬を同等にしたのであった。

 給料は当時の一日分の日当1デナリ。しかし時間割にしてみると夏期に夜明けから

日没までがと夕方日没直前から日没まででは15倍の開きとなる。しかも、日中の炎暑

を考慮すると実に不平等な賃金に思える。確かに労働者から見れば不当に思える

差別であるが労働者を雇われた雇い主(ここでは天地の創造者であり所有者である

神様)の視点から見ると事情は反転する。

   このブドウ園の主人が意図された事に注目しなければならない。この主人の

言葉を注意することが必要だ。彼が心にかけたのは農場の生産性や収益では

無かった。仕事も無い中で生活の為に仕事を求める貧しい労働者達の生活であった。

逆に言うならば農園主人に象徴される神様の意図が明白になる。神様が人間

労働を求められたのではない。神様が気にかけておられるのはご自分の生活

ではなく人間達の生活である。神様が神様であれば当然自分の必要を人に

頼る必要などはない。一言で天地を存在させる全知全能の神に彼にとって人間

の助けや協力は本質的に不要だ。新約聖書の使徒17章 24節25節を見たい。

そこには「この世界とそのなかの全ての物をお造りになった神は、天地の主ですから

手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また何かに不自由な事でもあるかの

ように、人の手ににって仕えられる必要はありません。神は、全ての人に、命と息と

万物をお与えになった方だからです。」

    その事を知る時に神様の意図は明確になる。神様が必要としておられるのは

人間の奉仕や労働ではない。神様の豊かさと慈しみ深さを示す対象であり、それを

躊躇することなく受け入れてくれる人物である。その様な神様のお人柄いやお神柄

を表示する為にはまさに一日15時間激しい労働に耐えた人ではない。実に神様は

人間のその様な働きと犠牲等は全く必要とされていないのだ。神様が必要なのは

神様の気前よさを表示する人々だ。その事を思う時に神様の気前よさという

神様の栄光は激しい労働を熱心にした人ではなく、何の働きも無いのに神様の

お恵みに与った人が適切である事が理解できる。

  私達も神様の本質を理解して神様の栄光があらわされるためには人間の

努力や働きなど以上に大切なもののある事を認識して謙虚に神様の働きを

させて戴く事その物を感謝して生活したいものである。

   思い違いをして神様を見くびり、神様を乞食か怠け者のように思い込んで

熱心さや自分の業績を神様の前に誇るような愚かな事は避けたいものである。

 

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