ラーメンは人なり
第7回
山岸 一雄(65歳)
大勝軒
(東池袋)
「無私」のラーメン職人(前編)
はじめに
今までこの連載を続けてきた中で、「東池袋大勝軒の山岸さん」ほど、その半生が「世に知られている」人は、いなかったように思う。
一世を風靡した「つけ麺」の考案者であること。最愛の奥様を亡くされ、絶望のあまり廃業を決意したものの、お客さんたちの応援に励まされ、お店を復活させたことは、あまりにも有名だと思う。
この連載には、「知られざる」ラーメン店主たちの人生ドラマを紹介する、というねらいというか、気負いのようなものがある。従って、「あまりにも有名な」東池袋大勝軒については、「我々がやらなくてもよいのでは」という考えもあり、しばらく躊躇があった。
しかし、今回、あえて取材を行うことにしたのは、「我々なりの視点で、再取材することに、意義はある」と思い直したからであった。読者諸兄の中には、「ああ、この話は知ってるや」という部分も多いかとは思うが、その中から我々なりの切り口を酌み取っていただければ幸いである。
今回の取材で、今更ながら思ったことは、山岸さんの素晴らしい人柄だった。言うまでもなく、今までの取材対象の方々も素晴らしい人たちだったのだが、山岸さんには、他の方に見られない「達観」があった。変な言い方だが、高位の禅僧の話を聞いたような、穏やかさを感じたのである。拙文が、その空気を、少しでも伝えられれば、と願っている。
本文を始める前に、ちょっと注釈をさせてもらいたいことがある。
世の中に「大勝軒」を名乗るラーメン屋さんが多いのは周知だと思うが、これらの関係についてご存じだろうか。とかく同じ「大勝軒」なので「お互い関係があるのだろうか」と思ってしまいがちだが、実は「大勝軒」という名のラーメン屋は、いくつかの系譜に区分され、それぞれ系譜は、お互いに全く関係がないことを説明したい。
筆者の知る限り、首都圏には、大きく3つの「大勝軒」グループがあるようである。一つは日本橋の大勝軒。この店は明治にできたという大変な老舗である。もう一つは代々木上原の大勝軒。ここは昭和26年創業で、いわゆる「荻窪丸長」の系列につながる店であり、東池袋の大勝軒もこの系列から生まれた店である。あと一つは、永福町の大勝軒。これは昭和28年創業と聞く。
代々木上原の大勝軒は、日本橋に大勝軒という店があることをまったく知らなかったという。永福町も、同名のラーメン屋があることを知らずに命名したかもしれない。いずれにせよ、3つの大勝軒には、それぞれの系列店があるわけだが、グループ同士は、言ってみれば「偶然の同姓同名」のようなもので、何の因果関係もないのである。以上は余談だが、筆者も今回初めて知った部分もあるので、紹介させてもらった。
生い立ち
山岸一雄さんは、昭和9年4月28日、長野県中野市に、2人兄妹の長男として生まれた。父親は海軍の下士官だった。
「生まれたのは母の実家だったんですが、4歳から父親の勤務先の横須賀に越しました。」
おりしも日中戦争のさなかではあったが、海軍の街、横須賀は活気に満ちていたという。山岸さんのラーメン原体験も、横須賀だった。
「子供の頃は、支那そば、コロッケ、チョコレートパンが大好物でした。特に支那そばは母親も好きで、よく夜鳴きそばを食べましたねえ。当時、支那そばが11銭か12銭ぐらいでした。」
山岸さんの楽しかった横須賀生活は7歳で終わった。昭和17年11月16日、太平洋戦争開戦まもなく、父親は戦死。軍人相手の貸家に住んでいた山岸さん一家は、母親が病弱だったこともあって、母親の実家である長野県下高井郡山ノ内町に再び移り住んだ。
「戦争の始めだったこともあって、立派な葬式でした。父親は私の自慢でしたね。」
母親の実家は農家だった。そこで終戦を迎えた山岸さんは、終戦後、新制の穂波中学に進学する。
上京
昭和25年、16歳で山岸さんは上京する。
「普通なら集団就職の時代なんですが、私の場合、ちょっとした行き違いがあって、就職が遅れたんです。だから単身で長野から上野までやってきました。正直、取り残されたみたいで、心細かったですね。」
上京した山岸さんは、1年間、旋盤工として働くことになる。
「工場と住まいは墨田区の向島で、東京といっても、はずれでした。仕事はそんなに苦ではなかったんですが、まかないの食事が粗末だったのは、結構不満でしたね(笑)。楽しみと言えば、休みの日に浅草まで出て、1杯30円のラーメンを食べることぐらいでした。」
昔も今もアルコールを飲まない山岸さんにとって、「食べる楽しみ」は、特に重要だったという。とはいえそんなに給料がよいわけでもなかったから、食べる楽しみと言っても高価なものは無理。そこで、よく食べたのは、慣れ親しんだラーメンだったのである。
ラーメンの道へ
東京には、山岸さんにとって心強い縁者がいた。山岸さんの従兄弟に当たる坂口さんだった。坂口さんは、昭和22年末、山岸さんの実家に温泉療養で滞在したこともあり、山岸さんとは、特に親しかった。
「一緒に暮らしていたこともあって、実の兄のように慕っていたんです。実際、ずっと『兄貴』と呼んでいますしね。」
その坂口さんは、阿佐ヶ谷の「栄楽」というラーメン屋で働いていた。「栄楽」は、故青木勝治さんと故山上信成さんによって始まる「丸長」「丸信」に連なる店で、今や首都圏最大級のラーメン勢力となった「丸長」系が、当時まだ4店しかないうちの一つだった。
「ある日、兄貴がわざわざ会社まで訪ねてきてくれたんです。『今度、自分の店を持つから、手伝わないか』と誘いに来たんですね。私は『兄貴がやるなら一緒にやりたい』と二つ返事で承知しました。会社には『なにもラーメン屋なんかに』と引き留められましたが、気持ちは変わりませんでした。」
昭和26年4月10日、山岸さんは、ラーメン職人としての第一歩を印した。
中野大勝軒始まる
「坂口さんの独立の手伝い」という理由でラーメン職人となった山岸さんだが、なかなか独立がかなえられず、最初は栄楽で働くことになった。
「月給が半分ぐらいになりました(笑)。しかもそのほとんどを実家に仕送りしてましたから、出前用の雨合羽も買えませんでしたねえ。」
山岸さんの仕事は、洗い場、そして麺作りなどに仕込みの手伝いだった。
「ずっと裏方でしょ。人によっては、最初からお客の相手をしている新人もいたんですよ。だから当時は『損な役回りだなあ』と思っていました。でも、後になって思うと、あそこで製麺を学べたのは大きかった。ラーメン屋の中には、『粉を扱う』ことに抵抗を持っている人も多いでしょ。麺は麺屋、と人任せにしているから。私は、加水や潅水も自分で量って麺を作りましたから、全部覚えたんです。丸長の仲間でも自家製麺は少ないですから、これはためになったと思っています。」
昭和26年12月30日、ようやく坂口さんは独立、山岸さんも手伝うことになった。場所は中野区橋場町(現在の中央4)、屋号は「大勝軒」いわゆる「中野大勝軒」である。(注:現在の中野大勝軒よりも南だった)
「屋号の由来は、『大きく軒なみに勝る』という意味で、同じ屋号の店が日本橋にあることは知りませんでした。」
大勝軒は順調に出発し、昭和29年末には代々木上原に出店。こちらを本店とし、中野店は支店となり、山岸さんに任されるようになった。
つけ麺考案
昭和40年代末に「中華つけ麺大王」の登場で大ブームとなった「つけ麺」。今や丸長系列の看板メニューとなったつけ麺だが、このルーツには、「中野大勝軒説」と「東池袋大勝軒説」がある。さて、その正解だが、あえて言えば「両方」かもしれない。つまり、つけ麺は「東池袋大勝軒の山岸さんが、中野大勝軒の店長だった頃に考案した」のである。
「元々似たものは、栄楽の頃からあったんです。茹であがった麺を丼に移すときに、ザルに麺が残ることがあるでしょ。昔は、その麺を1本、2本と集めて、器に取っておいたんです。それを、湯飲みに返しとスープ、唐辛子とネギを入れて、ざるそばみたいにして、まかない代わりに食べていたんです。まあ、『食べ物を粗末にしない』時代の知恵だったんでしょうね。それに、忙しかったから、ちゃんとした食事を取る時間がなかったことも理由でした。これは私が店に入る前からあったようなので、たぶん、元々日本そば職人だった丸長の創始者が、「ざるそば」気分で作ってみたんでしょうねえ。この『つけ麺の原型』を食べていると、お客さんに、『お、うまそうなものを食ってるじゃないか、それはなんだい?』と聞かれたりして、それで、『これをメニューにしたら、受けるんじゃないだろうか』と思いついたんです。」
しかし、最初はまわりの反対があった。つけ麺は、茹で上がった麺を、一旦冷水で締めなければならない。つまり、ラーメンより手間がかかる。「せっかく繁盛しているのに、わざわざ手間のかかるものを出すのはムダだ」というわけである。それでも山岸さんは意地を通した。
「やっぱり、自分がおいしいと思うんだから、お客さんにも食べてもらいたいと思い、中野店だけで始めました。」
かくしてつけ麺は、昭和30年4月から始まった。名称は「特製もりそば」。料金は40円で、35円のラーメンよりも5円高かった。この山岸さんのこだわりが生んだ新メニューは、お客さんにも好評だった。
「兄貴は、最後まで反対で、代々木上原でも始めるようになるまで3年かかりましたね。それで、兄貴は『つけそば』という名前で売ったんです。今思えば、『つけ麺』まであと一歩、の惜しいネーミングでした(笑)。たぶん『つけ麺』の名付け親は、つけ麺大王なんでしょうね。」
前編
中編
後編
あとがき