ラーメンは人なり
第7回
山岸 一雄(65歳)
大勝軒
(東池袋)
「無私」のラーメン職人(後編)
復活
奥さんの死によって、山岸さんは、生きる気力を失ったという。幼い頃から結婚を言い交わした仲、そして山岸さんの病気後は、かけがえのないパートナーとして店を守った相棒。奥さんの存在は、余人の想像もつかない大きなものだった。
「子供もいませんでしたから、老後はカミさんと楽しく暮らしたい、そのために板橋に家も買ったりしていたんです。でも、何もかも、どうでもよくなったんです。」
それから約半年、山岸さんは、ほとんど何もする気が起こらず、家で呆然としていたという。もちろん店を再開することもなかった。店は8月の初旬から、ずっと休業していたのである。
昭和62年が明けて、山岸さんは、ひさしぶりに店の前に立った。
「もう店を閉めるつもりでした。気力もないし、やろうとしても私1人では、どうにもならないですから。」
そこで山岸さんが目にしたのは、「しばらく休業します」という張り紙に、びっしりと書き込まれた「早く店を再開して欲しい」というお客さん達のメッセージだった。
「これはすごいなと思いました。一つ一つ読んでいくと、大阪から来たとか、遠くから足を運んでくれた人もいたんですね。こんなにたくさんのお客さんが待ってくれているのか。そう思うと感動しました。燃えてきたんです。それで、もう一度やってみようと思いました。」
後継者たち
しかし、再開にあたって、難問が一つあった。人手である。今まで大勝軒は、山岸さんと奥さん、そして山岸さんの妹さん、あと一時的に親戚の手伝いがいただけで、従業員を雇ったことがなかったのである。
「カミさんがいやがったんですよ。どうも他人と一緒に商売をするのが苦手だったみたいですね。それに『自分は体が弱いから、休みたい時に休みたい。その時に従業員がいると気を遣ってしまうから』とも言ってました。だから、それまで弟子入りを希望した人もいたんですが、全部お断りしていたんです。」
そこで、山岸さんの脳裏に浮かんだのは、特に熱心に弟子入りを希望していた2人の人物、佐藤省三さんと、荒井一雄さんのことだった。
佐藤さんはファミリーレストランの指導員、荒井さんは近所の喫茶店の跡取りだったが、共に大勝軒の味に惚れ込み、熱心に弟子入りを希望していたのである。
二人のスタッフを得て、大勝軒は昭和62年3月10日、新たなスタートを切った。ここで特筆したいことは、山岸さんは、ラーメン作りのノウハウを、何一つ隠すことなく、伝授したことである。最近でこそ、ラーメンのノウハウを公開する店も出てきたが、かつては信じられないことだった。今でも返しの仕込みを教える店はまれだし、ノウハウを「職人の財産」と考える人も多いのに、山岸さんは、何の惜しげもなく、すべてを伝えたのである。」
「子供もいませんから、私が死んでしまうと、私の味が消えてしまう、それが寂しかったんです。だから自分の味を受け継いでくれるのなら、誰でもよかったんですね。」
それ以来、山岸さんの元には、何人もの人が弟子入りし、数多くの店が生まれた。その中には「ごとう」を始めとして行列店、人気店も多い。そして、弟子入りに限らず、山岸さんは、尋ねられれば、誰にでも何でも教えた。
「青森に住んでいた人が、『テレビで見て、自分もラーメン屋がやりたい』と電話がかかってきて、電話だけでラーメンの作り方を全部教えたこともありました。その後、数年たってから、その人が家族と一緒に訪ねてきてくれたりしました。他にも、名古屋でうどん屋をやっていたおばあさんが、新幹線の日帰り通いで習いに来た、なんてこともありました。」
平成2年10月には、雑誌「DANCHU」にもレシピを全公開した。この記事をきっかけに、宇都宮に「バカうまラーメン花の季」が生まれたことは、旧稿でも取り上げた。
「やっぱり同じ味を作ることは難しいでしょう。ちょっとした手順や時間の違いで、味は変わってきますから。でも、私の味が、その中に少しでも残ってくれれば、それでいいと思っています。」
「大勝軒」の応援団
東池袋大勝軒には、「大勝軒友の会」というファンクラブが存在する。これは、店が関係しているわけではなく、純粋にファンの集まりである。会員数は約35名。全員が店の常連で、現在は会員を募集していない。常連客が自主的に作ったファンクラブというのは、世にラーメン屋多しと言えども、筆者は他に例を知らない。
「元々は、店の開店前に、チャーシューとメンマのおつまみを肴に、ビールを飲んで開店を待っている常連客がいて、その人達が作ったんです。」
活動と言えば、年に1〜2回、山岸さんを招いて宴会をやるだけのグループだが、「友の会」の存在は、店がお客さんに愛されている証ではないだろうか。
「店が再開した日、店の外に出てみたら、行列が出来ていたんです。『今日から営業します』とは全然言ってないんですよ。どうやら店の中で仕込みをしている気配で、お客さんが集まって来てくれたらしいんです。開店の準備でしばらく前から店で仕込みをしていたんですが、その間も、しょっちゅう様子を見に来る人や、問い合わせの電話がかかってきましたし。本当にありがたかったですねえ。」
池袋大勝軒が、「お客さんの応援で成り立っている店」だという証拠は、いくつもある。「出前は、自分で運ぶ」「勘定は自己申告」「飲み物類は自分で冷蔵庫から出す」といった独特の「セルフサービス」のルールも、すべてお客さんが自主的に始め、定着していったことばかりであり、それもすべて「山岸さんに負担をかけまい」という心遣いから始まったのである。
その想いに、山岸さんも応えている。山岸さんは、よほどの例外がない限り、自分で麺あげをする。老舗の行列店、有名店の中で、「今でもご主人が厨房に立ち続けている」店は、ほとんど見受けられない。しかも、山岸さんには静脈瘤の持病がある以上、「厨房に立ち続けること」の負担は、とても大きいのである。
「やっぱり、私がやらないと、お客さんが不安に思うんですね。だからこんな顔でもお客さんが喜んでくれるならと、店に出ているんです。」
麺あげだけではない。麺作り、返し、スープ、チャーシューやメンマの仕込み、すべての仕事を、山岸さんが率先してやっている。お店のスタッフは、どんな作業においても「アシスタント」に過ぎないのだ。こうして山岸さんは「人任せにせず、自分でやる」ことで、お客さんの「想い」に答えているのである。
これから
正直なところ、山岸さんの健康状態は、決して良いとは言えない。昨年秋には静脈瘤が悪化し、ほとんど歩けない状況にまでなったし、現在でも店内では何かにつかまらないと歩けない状態だし、外出には杖の助けがいる。外出は難しく、ほとんど店から出ることもないし、日によっては寝場所である店の2階へ上がることさえ苦痛で、店内のイスの上に板をおいて、そこで就寝する日も多いという。それでも決して、山岸さんは引退のことを考えていない。
「あるお客さんが言ったんです。『自分は山岸さんを最後まで見取りたい。でも、それは山岸さん自身の事じゃない。山岸さんのラーメンが最後にどうなるのか、山岸さんのラーメンを最後まで見取るんだ』と。こう言われると、本当に死ぬまでラーメン作りはやめられないと思いますよ。」
「休むのも、長く休むのはイヤなんです。勘が鈍ってくるような気がして不安なんですね。」
楽観は許さないとはいえ、山岸さんは店を閉じるつもりはない。そのことを気負いなく淡々と、山岸さんは語ってくれた。
取材を終えて
前述したが、山岸さんには「悟り」の境地を思わせる達観があると思う。例えば、「自分の技術をすべて教える」ことでも筆者は思う。もし「自分の技術を後世に伝えたい」ということに「こだわり」があれば、「誰にでも教える」というわけにはいかないのではないだろうか。やはり人物を見定め、「自分の後継者として信頼できる人間だけに教えたい」と思うのが普通の心理だと思うし、「安易に教えること」が、技術を伝える上で、あまり適切な方法でないことは、山岸さん自身も承知しているはずである。それでも敢えて、簡単に教えてしまうのはなぜか、それは「自分の味を伝える」ことに執着を持っていない証だと思うのである。「どんなに一生懸命教えても、人が違う以上、絶対に自分と同じ味は作れない。ならば、自分の技術を明かして、あとは各自で考えればいい。それが違う味になっても、それはそれでいいじゃないか。」山岸さんは、こう考えているように思う。
とかく「老舗」というものは、ある時点から保守的になったり、退嬰的になる傾向は否めない。池袋大勝軒にしても、今後、メニューや味が変わったり、新たな展開をすることはないだろう。しかし、池袋大勝軒の味や魅力が衰えることは、あり得ないと思う。それは山岸さんが、人一倍の手間をかけてきたことを、決して崩そうとしないからである。
今でも山岸さんは、午前5時から仕込みを始め、店を切り盛りし、閉店後の休息を挟んで、夜9時まで仕込みをする。自家製麺を含め、その全作業を、山岸さんが自分でやるのである。この行為に動機付けをすることは、たぶん意味がないだろう。
「自分はラーメンしか取り柄がない。それだけの人間なんですよ。」と言って笑う山岸さんには、人の生き方として、深く感じるものがった。
Special Thanks to Hideyuki Kikuchi
前編
中編
後編
あとがき