ラーメンは人なり
第6回
村中 明子(67歳)
ラーメンの駅
純連(すみれ)/純連(じゅんれん)
(札幌市)
「北」のラーメン伝説(前編)



はじめに
「純連」。札幌ラーメンを語る上で欠かすことの出来ない存在である。昭和39年創業の老舗であるこの店は、札幌市民にとって伝説的なラーメン屋として知られていた。さらに新横浜ラーメン博物館への出店が、その名声を全国区に広げ、今や日本を代表する「北のラーメン」となったのである。
ところで、これを「すみれ」と読むか、「じゅんれん」と読むか。ラーメン博物館のおかげで、関東の人には、「すみれ」という名が知られているし、地元、札幌では「じゅんれん」という名の方が、通りがよい。しかし、どうして一つの店名に、二つの呼び名があるのだろうか?
 正確に言えば、札幌市豊平区平岸にある村中教愛(兄)さんの店が「じゅんれん」で、札幌市豊平区中の島と、新横浜ラーメン博物館にある村中伸宜(弟)さんの店が「すみれ」である。しかし、これでも十分な説明ではない。
 かつて、中の島にあった「純連(すみれ)」(現在の「すみれ」とは、別の場所)という店が、昭和58年に中島公園に移転した時、呼び名を「じゅんれん」に改めた。この名を兄が受け継ぎ、昭和62年、南区澄川(後に平岸に移転)に店を開く。その翌年、弟が、同じ店の古い名「すみれ」をもらって新たに、純連の故地、中の島に店を開いたのである。この二つの「純連」は、それぞれ兄弟がオーナーだが、経営も完全独立で、事実上、全く別の店である。
「純連」と縁続きの店は、もう一つある。今回の主人公、村中明子さんが職人をつとめる「ラーメンの駅」である。そして、村中さんこそが、「じゅんれん」と「すみれ」を経営する兄弟の母親であり、「純連」という店の「味」と「名声」を築き上げた当事者なのである。
「純連」には、かつて一つの伝説があった。それは、「お客さんから逃げる店」という噂である。つまり、お客さんが増えてくると、行き先も告げずに急に店を閉め、また誰も知らないような場所で、ひっそりと店を再開するというのである。ある雑誌の紹介記事で、「自由経済の原則に反する店」とまで言われたが、これが本当ならば、異常なことである。全くの道楽でもない限り、「お客から逃げる店」など、到底信じられない。 後述するが、これは伝説であって、事実ではない。店が行き先も告げずに移転したのは事実だが、それは、それなりの理由あってのことだった。しかし、問題は、事実がどうだった、ということではなく、なぜそんな伝説が生まれたのか、ということだと思う。重要なのは、「純連」に、そんな伝説が生まれるほどの「カリスマ性」が存在したことなのではないだろうか。
 今回は、村中さんの半生を追うことで、そのカリスマ性の秘密を探りたい。

生い立ち

 村中明子さん、旧姓、我妻(わがつま)明子さんは、昭和6年11月3日、札幌市南1条19丁目に5人姉弟(女、女、男、女、男)の一番上に生まれた。
「父は、商売が好きで、いろんな商売をやっているんですよ。」
村中さんが生まれた頃は、家業は雑貨屋だった。昭和20年、疎開のために中の島に移った後、家業は冷菓製造業になった。アイスキャンデーを作っていたのである。
「聞いた話では、アイス最中ってありますよね。あれを最初に作って売ったのは父らしいんです。」
村中さんの父は、アイスキャンデー作りの傍ら、アパートを経営したり、食堂を営むなど、手広く商売をしていた。今年96歳になるという村中さんの父は、今も健在で、先般自伝も出版したという。
「父の商売が好きでたまらない血が、私にも流れているんでしょうねえ。」 村中さんは、学校を出た後、母が営む食堂の手伝いをするなど、自分でも商売に参加している。
「やっぱり、お客さんに喜ばれるのが嬉しかったですから、私も商売が好きでした。」

結婚〜ラーメンの思い出


 ご主人と出会ったのは、昭和25年。ご主人が運転免許取得のため、村中さん一家が営むアパートの住人になったことが縁だった。当時、今の教習所にあたる施設は少なく、札幌、中の島にあった教習所に、道内各地の人が下宿しながら通ったらしい。 1年の交際を経て、昭和26年、19歳で村中さんは結婚し、ご主人の郷里、十勝に住むことになった。
 結婚後、料理が得意だった村中さんは、手料理を作って、人に振る舞う機会も多かったという。
「結婚前、実家の食堂で、料理を作っていたんです。見よう見まねでしたけど、自分でだしを取ったりしてうどんやそばも作っていました。」
「それで、ラーメンを作ることもあったんです。ラーメンは定食屋のメニューになかったから、お客さんに出したことはなかったんですが、私はラーメンが好きだったんで、自分で工夫して作ってみたんですよ。正直言って、私はそんなに美味しいと思わなかったんですけど、すごく喜ばれました。昭和30年くらいですから、十勝あたりの田舎では、ラーメンは、まだ珍しい食べ物だったからでしょうね。」
 その時作っていたラーメンを、村中さんは「昔風のラーメン」と教えてくれた。オーソドックスなしょうゆ味のラーメンだったらしい。
「それで、『いつかラーメン屋をやるのもいいかなあ』と漠然と思うようになったんです。」

ラーメン店開きへ

 昭和35年、村中さん夫婦は、札幌市豊平区中の島に貸しアパートを建て、十勝から札幌に移り住むことになった。
 「家庭に入って、田舎で暮らしていると、自分でも何か商売がしたくて、辛抱できなくなったんですね。札幌で商売を始めたかったんです。十勝には9年いましたから、住めば都で良かったんですが、それでも、主人を口説いて、運送業は主人の弟に譲って、札幌に戻ってきたんですね。」
 ご主人を口説いて、札幌に戻った村中さんだが、当時は子ども達(男の子3人)が小さく、商売を始めたいと思っていても、子育てに追われ、その余裕がなかった。しばらくはご主人が村中さんの父が営むアイスキャンデー屋を手伝うだけで、村中さんは専業主婦を続けねばならなかった。そんな村中さんを刺激したのは、家の前にあるラーメン屋だった。
「札幌に来る少し前、ある人が、ウチに『屋台を買い取って欲しい』と、トラックの荷台に載せる用の屋台を売りに来たそうです。それを母が、ヘソクリで買っておいたんです。1万円だったそうです。それを、庭の通りに面した場所に、さしあたり置いておいたんですね。そしたら、また別の人が『ここでラーメン屋を開きたいから、屋台を貸して欲しい』と言ってきたんで、そのまま庭先にラーメン屋が出来たんです。名前は、『利休』というお店でした。」
 村中さんは、庭先のラーメン屋を見て、「自分もラーメン屋をやってみたい」と改めて強く思うようになった。
「それで4年後に契約の更新があり、今のラーメン屋さんが更新をしないことを知って、『今度は、自分にラーメン屋をやらして欲しい』と主人や両親に頼み込んだんです。『絶対やらして欲しい。美味しいものを作りたい』って。最初はみんな反対で、特に父は『小さい頃から体が弱かったおまえには出来ないだろう』とまで言われたんですが、それがかえって私を勇気づけてくれたというか、やる気を強くしてくれました。それで、一生懸命頼んだおかげで、結局は折れてくれました。その時も、『私は商売人の娘なんだなあ』と自分でも思いましたね(笑)。」

開店準備

「やってみたい」と周囲を口説いた村中さんだったが、経験といえば、定食屋の手伝いをしていたくらいで、ラーメン屋については全くの素人である。
 しかも、村中さんは、自分が今まで家庭で作っていた、ラーメンに満足していなかったのだ。
「どうも、もの足りないんですね。だから、このままのラーメンをお客さんに出しても、お客さんを満足させることは出来ないなあ、と思っていました。」
そこで、村中さんは、知り合いの中華料理屋に頼んで、10日間程、スープの作り方を勉強させてもらうことにした。
「中華料理屋さんに行ったのは、やっぱり、こってりしたラーメンを作りたいと思ったからでしょうね。家庭料理だと、どうしてもあっさりでしょ。」 しかし、勉強といっても、教えてもらえるわけではない。全ては自分の目で見て、「盗んで」覚えるのである。
「それで、一番勉強になったのは、『料理は火が一番大事』だということです。強い火力を使う、しっかりと火を通す、これがおいしさの秘訣だということを体で覚えました。」
 こうして村中さんは、「自分の頭で」どんなラーメンが美味しいのか考えた。その結果が、あの独特の香ばしさを持った濃厚なラーメンだったのである。
「私のラーメンには、特別なモノは、何も入っていません。よそと違うとしたら、それは火の使い方だけでしょうね。」
 製麺業者は、森住製麺を選んだ。
「知り合いの仲介で、おつき合いすることになったんです。私のスープには、たまご麺があうと思ったんで、特注でお願いしました。」


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