ラーメンは人なり
第6回
村中 明子(67歳)
ラーメンの駅
純連(すみれ)/純連(じゅんれん)
(札幌市)
「北」のラーメン伝説(後編)



「駅亭」開業

 平成5年10月、村中さんは、一大決心して股関節亜脱臼の手術を行う。
「失敗すれば、一生車イスかもしれないと言われていました。でも、このまま痛みに苦しむよりは、思い切ってやってみようと思ったんです。結果は大成功でした。右側に人工関節を使っているんですが、今までの痛みが、嘘のようになくなったんです。これなら、もっと早くやっておけばと思いましたね(笑)。」
 長年の持病だった股関節亜脱臼を克服した翌年、村中さんに新たな転機が訪れる。
「私の二人の妹が、ラーメン屋をやりたいと言い出したんです。それで、私も治ったから、二人に教えながら店を始めることになりました。ただ、私も手術をして1年しか経っていないし、不安もあったんで、6ヶ月くらい手伝ったら、後は妹たちに任せて、私は店に出ないつもりでした。」
 平成7年6月19日、北区新琴似に「ラーメンの駅亭」は開店した。
「店の名は、姓名判断を参考にしながら、高倉健さんの映画『駅』からもらいました。最初『駅亭』にしたのは、『駅』という名前をそのままもらってしまうのは、おこがましい気がして、ちょっと遠慮したんです。でもそのうち、やっぱり『駅』だけの方がいいなあと思って、名前を変えました。」
 店は、例によって宣伝は何も行わず、「純連」との関係も、暖簾のすみに「純連より」と小さく書かれているほかには、何もアピールしなかった。それでも口コミで客は次第に増えていった。その中には、かつて村中さんが仕切っていた頃の「純連」のファンも数多くいたのである。
「昔のお客さんが来てくれて、『ああ、昔の味だ』と言ってくれるのが嬉しかったですね。親子2代で来てくれたお客さんもいました。昔はお客さんと口をきくこともなかったんですが、年月のせいでしょうか、今はお客さんと話をする機会も増えました。そんなせいで、最初だけ手伝って、軌道に乗ったら身を引くつもりだったんですが、やめられなくなったんです(笑)。」
「駅」で気づいたことなのだが、定休日が、毎週日月に加えて、毎月14日も休みになっている。不思議に思ってきいてみると、
「実は、14日が母の祥月命日なんです。96歳になる私たちの父は一人暮らしなんで、せめて母の命日くらい、娘3人が顔を出した方がいいと思って、休ませてもらってるんです。勝手な店ですよねえ(笑)。」

こだわり

「ウチの味は、こってりしていることが特徴だと思うんです。自分も年を取ってきたせいか、昔よりはあっさりした方が好きになってきたんですが、意識してこってりしたものを作ろうと、心がけています。純連の屋号に『若い人にたくさん集まって欲しい』という願いがあったように、私は若い人が美味しそうに食べてくれるのが嬉しいんで、若い人のために、こってりした味を守ろうと思っています。」

これから


「ラーメンを35年作ってきて、しみじみ思うことは、ラーメン作りは、毎日が勉強だ、ということですね。今でも勉強しなきゃあ、と思うことが、毎日あります。たぶん、もう勉強しなくていい、と思うことは一生ないでしょうね。本当にラーメンは難しいと、いつも思います。」
「この年になって、未だにラーメンを作っているのは、引き際が悪いようで恥ずかしいんですが、やっぱりお客さんに喜んでもらいたい、美味しいものを食べてもらいたいという欲には勝てないんですね。だからいつまで続くかわからないですけど、ラーメンを作り続けたい気持ちは、ありますね。それと、健康あってこそ、ラーメンが作れるということ。だから体のことを、いつも気にしているんです。」

取材を終えて

 村中さんは、小柄で、いつも控えめな口調で話をされる。とても、あの強いインパクトを持った味を作り上げ、足の痛みに耐えて、行列店の厨房を何十年も守ったような「強さ」は、正直、見受けることは出来ない。
 ただ、「お客さんに喜んでもらいたい、お客さんが美味しいと言ってくれる声を聞きたい」という思いは、繰り返し村中さんの口から聞くことが出来た。たぶん、これこそが村中さんの「支え」だったことは、疑いないだろう。
これを「商売人だった父の血」と、村中さんは言う。「商売」と言えば、「お金儲け」のことだと、筆者は思っていたが、どうやらそれはイコールではないらしい。もちろん対価をもらうことは必要だし、重要なことだろうが、それだけでは、本当の「商売」ではない。そこにお客さんの満足があってこそ、誇りある商売人といえるものだと、改めて感じた次第である。


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