鉱山に携わる人達をまつる 金山彦神社へ渡る橋              間歩

 

2000年7月13日

< 秀吉の埋蔵金 >

私の家から車で10〜20分の所に銀山や銅山の発掘跡が沢山ある。
中でも
多田銀山は、秀吉の多額な埋蔵金が眠っていると言う事で今なお採掘に情熱を燃やす人達が絶えない程で、日本最大の埋蔵金伝説、歴史的ロマンの舞台になっている。

豊臣秀吉が晩年に、幼い秀頼の行く末を案じて、短期間に多数の囚人を使って21ケ所に分散埋蔵し、作業終了時には囚人全員を抹殺したといい伝えられているのだが、その額4億54万両(現在の約200兆円に相当)!!!

とはいえ、「銀山」は猪名川町の奥、静かな川のせせらぎと、生い茂る緑の中の山間。昔のままのたたずまいの屋敷や、代官所跡、間歩(採掘の為の坑道)、守神の金山彦神社などが、往時を偲ばせながらも、心安らぐ静かな山里である。人気もない静かな山道をひとり、、しばし散策して遠い昔を思いやったのであ〜〜〜る・・・

 

山道にある立て札『多田銀山について』

多田銀山は多田鉱山ともいい、奈良時代(1200年前)東大寺の大仏鋳造の為に銅を献じたと言われる銀や胴の産地である。1570年には豊臣秀吉により鉱山を盛大に開発されもっとも栄えた。

大阪城築城の際台所をうるおすことが大きかったとみえ、台所真歩とか瓢箪真歩などの坑口の名が付けられている。当時は所帯数3千、人口1万5千あったといわれ、いまもなお本町、新町など、山里とは思われない地名が残り、かっての銀山町を物語っている。
明治時代には製錬所が新設され、昭和48年まで採鉱していた。