プレイエルの歴史

■イグナッツ・ジョセフ・プレイエル、1757年ウィーンの近くのリュッベルスタールで38人兄弟の24番目に生まれ、ウィーンで、ピアノとヴァイオリンを学び、17歳(1774年)の時パトロンが付き、ハイドンのもとで5年間学んだ。

■ハイドンに認められ20才の時にハイドンの持っていた合奏団の指揮者にされたが、その境遇に飽き足らずパトロンに背いてイタリアへ、オペラの研究に行き、オペラ、その他数曲を作曲している。
 その後、1780年にはストラスブルクの大寺院のオルガン奏者を6年間、後にチャペルマスターを獲得して、更に、1791年にロンドンに渡り、コンサートマスターとなった。

■作曲家としても一時はモーツァルトにより、ハイドンのものより、優れていると賞讃されたが、多作の傾向がひどく、ずさんになり、音楽家として生きられなくなり、その後フランスに渡り1805年楽譜の出版そ始めた。

■2年後の1807年に、その当時パリの有名なピアノメーカーであったヘンリー・パペの弟子を一人引き抜き、ピアノを作り出したが、この仕事には打ち込めず、1824年に長男のカミュー・プレイエルに全権を譲り引退して1831年に没。

■その年の秋にショパンがパリにやってきて、プレイエル・コンサートルームでデビューしている。

■カミューはストラスブルクで生まれ、父に音楽を学びピアニストとしても優れ、ピアノ製作者として優れた人物であった。

■当時のピアノの大家であったカルクブレンナーとパートナーを組み、数年間ロンドンでブロードウッド、コラード、クレメンティー、その他と共にピアノ製造技術を研究して、それらの優れた点を導入して、ヴェーナムのアクションを、アップライトに、ブロードウッドのアクションをグランドピアノに付け、工場も近代的にした、これがプレイエルの成功の鍵となった。

■カミューもブレンナーもピアニストとしても優れていたため、当時のピアニストの多くがプレイエルの工場のホールに集まった。その中でプレイエルの名声を高めたのがショパンである。

■デリケートな音色を好んだショパンはプレイエルのピアノが最適で、このピアノの詩人は生涯この楽器を使い続けたという。また、プレイエルのピアノ以外での演奏を拒んだとも言われている。

■その他、サン・サーンスを始め当時の有名なピアニストたちがプレイエルのホールで演奏会を開いている。その後、カミューは1855年5月にパリで亡くなり、コンセルバトワールの教授が受け継ぎ、彼の死後も他の者によって引き継がれた。