東京大学運動会航空部は、航空研究会から始まったらしい。 それは戦前にさかのぼる。 だから敗戦前後のOBがそのまわりの年と比べて少なかったり するようだ。 現在部長をなさっている佐藤淳造先生も、まだ研究会だったころの OBである。
東大航空部監督よりお話を伺いました。
私か入部した1968年には既に「航空部」の名称になっていましたが、 まだ正式な運動会には加盟していませんでした。というよりは、運動部 としては認知されていませんでした。
この年の5月には駒場が無期限ストに突入し、航空部も活動を自粛し もっぱら、団体でアルバイトを行い(年間ノルマ40日)、これを頭金 にして念願の機体(JA2100:三田式)を買って もらい、仮加盟1年を経て正式加盟となりました。初期は、1000m ケーブル数本分、約10万円の補助金が学生部からもらえるようになり、 また、毎年文部省に申請を出してもらい、機体を国有財産として、取得 できるようになったわけです。
東京大学工学部航空学科で昔グライダを作っていたと 思いますが、 ソアラーとして制作されたのはLBS3です。 これは世界選手権に合わせて、当時としては世界最高級の設計性能を有していたと いわれています。残念ながら国内でのテストフライトだけだったはずです。 制作されたのはLBS4で最後ですが、これは初級訓練用のセカンダリィです。
そんな研究会もいつしか飛ぶ方に専念するようになり、 20年位前に運動会航空部となったようです。 昔の航空部員は現在の航空部員より熱心で、合宿がないときは 経済学部なのに航空学科の図書館にいりびたっていた人とかいたらしい。
そんな先人たちのおかげで、現在の航空部が存在するそうです。
それは暗い夜のことだった。まっ暗な夜であった。
撤収作業を終えたO氏は機材車を運転して宿舎へ帰るところだった。
道がS字にカーブしているところで対向車が来たため、彼は左へ車を寄せた。
機材車の後席にはF守氏が一日の疲れをいやすためか、シートに横になって
寝ていたのだが、彼が目をさました時には立っていたという。
車は田んぼに落ちて傾いてしまったのだ。
自力での帰投は無理だと思った彼らは、助けを呼ぶべく宿舎へ歩き出した。
宿舎に近づき灯りを見た彼は驚いた。撤収作業はとっくに済んで
みんな帰ってきているはずなのに宿舎もまた、まっ暗なのである。
彼はこのとき初めて、サングラスをかけていることに気づいたという。
今でも彼はそのときのレッカー代がいくらだったか覚えているそうだ。
某美人女性ドライバーAが、今は亡き茶キャラを運転していた時である。
妻沼で宿舎前の土手を越えようとした時、対向車が来たので
親切にもバックして道を譲ろうとした。
助手席には1年生が乗っていたので、彼には左後方の確認をさせ、
彼女は右後方を確認しながらバックしていった。
不運にも、片輪が道から外れ土手に乗りあげていたのだが、それぞれ
片側しか見ていない二人には知る由もなかった。
気づいた時には車体は横転寸前まで傾き、脱出するのが精一杯であった。
これを見ていた他校のクルーに手伝ってもらいロープを使って横転を防ぐべく車体を
ひっぱり、この間にかけつけた仲間たちの協力によって、
茶キャラも事なきを得たのである。
ある陸送日のことであった。駒場を出発しようとしたところ、
風の旅団と呼ばれる劇団が、駒場祭のため入構しようとしていた。
外部の団体であったため守衛はこれを拒み、正門ゲートを閉じて
しまった。
トラックは正門のゲートが開かないと出発できないが、機材車は正門わきの
ゲートから先に出発してしまった。
機材車を運転していたO氏は、いつもの待ち合わせ場所である駒場裏の
山手通りに車を止めてトラックが来るのを待っていた。しかし待てども
待てどもトラックはやってこない。そこで彼は、トラックは自分より
先に出発してしまったものと考え、車をただ一人で運転していった。
数時間のドライブの後、彼は氏家のR/Wに到着した。しかしトラックは
ここにもいないのである。彼は、途中でトラックを追い抜いて
しまったのだろうと考え、R/Wわきに機材車を止めて休むことにした。
そのころトラックは、正門でのトラブルに巻き込まれ、立往生していたのである。
ひとりでR/Wにたたずむ彼が翌日どのように救出されたかは明らかに
なっていない。
赤のスカイラインGTS-4に乗る2人。
M:「おれこの道で100km/h出せるぜ」
ヴイーン、ガツッ
Y:「....」
妻沼の格納庫で機体整備をしていたときのことである。
作業もひととおり終了し、帰路につこうとした。
格納庫を片付け、出発しようとすると、機材車のキーが見つからない。
必死になって探したがみつからない。この晩は仕方なくここに泊まる
ことになった。
翌日スペアーキーを部員に持ってきてもらい、もう一度格納庫周辺を探す。
ごみ焼却炉を探していたSは見事、燃え残ったキーホルダーについている
無傷のキーを発見したのである。
これ以来、車のキーホルダーにはすべて不燃性物質を使用している。
氏家で合宿をするときはいつも自炊である。これには一年生が
当番となって全員の食事を作ることになっている。
T氏が食当をしていたときのことである。彼はエンジニアとして
優秀だが、料理は苦手であった。その彼がサラダとして
出したものは...「三色サラダ」
にんじん、大根、キュウリが生のまま、ぶつ切りで出されたという。
合宿で疲れている仲間や上級生のお怒りをかい、結局
彼自身が食べられてしまったという。
氏家で合宿をするときはメシは自炊であるが、宿舎である公民館を
じもてぃ(村人)も時々利用するので、このような日は外メシとなる。
航空部御用達のレストラン「しんめい」は、1000円前後のメニュー
が並ぶ中、ひとつだけ「しょうが焼き定食500円」というのがある。
当然のように航空部員はこれを人数分注文する。
このレストランはご飯のお替わりが自由なので、みんなで競って
お替わりを頼んでいたら、そのうち店員もめんどうになったらしく、
お釜を座敷に持ってきてしまった。ちなみに、F氏は7杯お替わり
した記録を持つという。
しかし次にこのレストランに行ってみると、ご飯のお替わりは
一人一回だけに制限されており、なんと店長が代わっていた。
みなさん食べ過ぎに注意しましょう。
曳航索が切れないよう点検をおこなうのが索点である。 傷んでいる部分を切り落とし、銅のスリーブでつなぐという 作業であるが、私が一年生の時、これをつなぎ忘れたまま 帰ってきてしまったことがある。責任は私を指導していた 2年生にあったのであるが、このような事件はこれ以外には 起きていない。
リトリブを100km/hで曳航。
無線で、「はちじゅうーー」というのを最後に聞こえなくなったような...,
よく、「死ぬかと思った。」と言ってたでしょうが。
おいらと松岡さんも後ろになら乗った。安田さんは逃げたんだったかな?
無線が途絶えたのは落っことしたからだね。
大体、途中からはハンドルすら握っていなかったりする。
耐ショック姿勢でバンザイ状態。口開けたら舌噛みそうだったもんな。
特に説明はいるまい。
R/Wエンドに溝があったのですが、飛び跳ねてこれを越えたので ことなきを得ました。大会中でしたが、最速のタイム(得点)は幻のものと なってしまいました。
飛行経歴の少なかった岡本さんを大会に出場させるため、単座機一機と ウインチだけ持っていったという合宿。岡本さんは日の出から日没まで ひたすらフライトをくりかえしたという。
大会中でしたが、「こんなの大丈夫だ」と内側から たたいて直してしまいました。
陸送のため山手通りを走っていたトラックが、パトカーに
止められました。
警官は過積載かと疑っていたようですが、トラックは2750kg積み
なのに対し、機体は約350kgですから、問題ありません。
この陸送は自家用操縦士の実地試験直後だったため、メンバーは
機体の重量を暗記しており、警官が学生にグライダーの重さを聞くと、
全員
「358.5kgです」
と正確に答えたので警官は納得したそうです。
く:「むねちゃん、”たいちたいくうけいかい”ってどういう字だと思う?」
む:「えーっと、大きな空と大きな地面、それと、景色の”景”に、”回る”でしょ」
く:「・・・むねちゃん、じゃあいつも出発前にそう言うとき、 どういう意味でやってんの?」
む:「大空を見て、大地を見て、ああ今日も景色がきれいだなあって指をくるくる 回すでしょ。」
燃料タンク約110lの石油混合物を廃棄処分にしました。 暗くてもちゃんと確認しようね。
夜中の1時ごろ、彼がひとりでとぼとぼ歩いて助けを求めてきました (徒歩約30分)。
エンジンオイルをひと缶(20l)いれても、キャップから液面が 見えてきません。おかしいと思った彼はオイルゲージを抜いてみると、 ゲージのHレベルをはるかに越えて、棒のまんなかあたりまでオイルに 浸かっていました。
合宿入り日、ウインチの試運転をしたところ、プシューという音がして トルコンフルードのパイプに亀裂が入ってしまいました。
翌日は運良く(?)雨だったので街へでかけてパイプを交換しました。 これでフルードを足せば準備OK!
フルードを足してゲージを見ると、なんか違う色の液体がついてきます。 ウインチ台車に何年も雨さらしになっていたフルードには水が混ざって いたようです。このため水とオイルが撹拌されてイチゴミルクのように なってしまいました。
トルコンはその構造上、フルードをすべて交換することができません。 高価な新品のフルードを20l以上も使って、ミルク色がやっと薄まった そうです。
何も知らない新入生にはいろんなことを丁寧に教えてやるのが 筋ですが、たまには冗談もいいでしょうか。
ASK21にはWINTER製の計器がついていますが、ある代は新入生に 「今合宿は機体係のミスで冬用の計器がついているから、 直線滑空は計器指示速度100km/hでやるように」 と教えました。 ほとんどの新入生はだまされませんでしたが、ある素直なBは その通り飛びました。
その日のミーティングでH教官はあきれて、 「上級生はたまに嘘つくことあるから注意するように」 とお話されましたが、勘のにぶいBはしばらくだまされた ままでしたとさ。
妻沼の砂嵐に耐えられず、目にホコリが入らないようにと
顔全体にサランラップを巻いていたとか。
化学実験用のゴーグルならまだよかったんだけど。
*この写真をお持ちの方、HP管理者へお知らせ下さい。
単座機で1時間のフライトを達成した時、おめでとうを言おうと
着陸した機体に走っていくと、着ていたシャツの前を広げて
「はいちゃったよー」
これは彼の初酔いですが、その後は必ずビニール袋を持って
飛ぶようになったそうです。
「1時間くらいたって一度吐くと、その後はまた1時間くらい平気だよ」
ちなみに、彼の弟が体験搭乗に来た時も、わずか数分の フライトで、エチケット袋(ビニール袋)は タプタプになっていました。
係員「オーライ、オーライ、はい、オッケー。オッケー!、オッケーです!!」
(ドンガラガッシャーン)
K「だってオーライとオッケーの違いがわかんなかったんだもーん」
最初に書いておくと、東大ウインチの台車の燃費は意外と良い。駒場から妻沼への 片道など、それこそ燃料計はほとんど動かない。 この日妻沼を出る時にウインチに乗った二人は燃料計がゼロをさしていることに 気づいていた。しかしドライバーであった某上級生(本人の名誉のため名前は伏せる) は「陸送日なのに車の燃料ゼロはありえない」というあまり根拠のない判断から、 「燃料計が壊れているのでは?」と疑いだす。本当に空なら燃料を入れようと思いつつ 、妻沼を出発するがウインチは順調に走り燃料警告灯も点灯しない。ことこの時に至り 彼は「この燃料計は壊れている」と結論づけた。 そしてそのまま走り続けること2時間余り。ウインチが4号の高架を登ろうと アクセル全開にしている時、突然エンストぎみの音を出し始める。高架の上なので 退避場所もなく、路肩へよせると突然燃料警告灯が点灯しそのままエンストして しまった。恐らく、極端に少ない燃料が、登り坂によりタンク内で偏りし、吸入不良を 起こしたと思われる。 交通を遮断しながら、伴走の機材車に軽油を買いに行かせたらしい。 (荷台のウインチのタンクは軽油で満タンだったのだが、、、)
教官:「(オッ、こいつはうまいぞ。自然離脱した後、離脱報告 しなかったが、速度セットがピタリ90km/hに決まってるぜ)」
前席、突然マイクをつかんで
前席練習生:「オイッ、コラッ、何やってんだ、遅いぞ、遅いぞ、 ウインチ90キロ!」
ピスト:「こらっ、1年、パラシュートが届かないぞ。人間で引いてこい。」
…1年、あわててパラシュートを引きにかかる。
ピスト:「オイ1年、急いで引け、それ、出発、出発。」
ウインチ:「出発!」
……………。
ASK21の計測中、量りが翼にあたりそうだったため、
毛布を置いて安心感を得た。
計測を行なうため量りにのせると、ばきばきと音がして
量りが翼を貫いた。
以降、航空部では危険な個所を隠し、見えないことによる安心感を
得ることは禁止された。
機体の組みばらしの最中に、運搬するトラックをバックさせた
ところ、ばきばきばきと音がした。
それゆえASK21のスタビは、他の部分比べ色が白い。
以後、スタビの置き場所には細心の注意が払われることとなる。
ちなみに、OBのJ氏によると・・・
妻沼で機体の係留の最中に、白キャラをバックさせたところ、
ばきばきばきと音がした。
まわりの人々、驚いてみんなが注目。
それゆえ、でかいポリバケツは、新しくなった。
バケツでよかったー。
ある年の冬合宿において宿舎のわきにある(正しくは宿舎である
公民館が神社の境内にある)神社に初詣に行ったところ、
その冬合宿において事故が多発した。
それ以来初詣をしなくなった。
ちなみに、その年の秋にも、何も知らない1年生がお参りをしたため 事故が起きたという。
曳航索が切れないよう点検をおこなうのが索点であるが、我が部では
索点後一発目に索切れすることが非常に多い。
よって我が部の教官は、索点後一発目には初ソロを出さないように
している。
ここには、いままで口頭で伝承されてきた部内の規則を集めています。
私の忘れていることがあると思いますので気づいた方はメールで直接
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