1999年11月6日(土)
< 北川博千さん >
今日は素晴しい秋晴れ、真っ青な空の下で、いつものドニ−チョメンバーとテニスを楽しんだ。
一度腰痛でも経験すると、こうして元気にコ−トを走りまわれるのがものすごく幸せに感じら
れる。隣のコートでは、我がテニスクラブ中、最高齢の北川さんが、プレイしておられる。
北川さんは、大正12年生まれの76歳。相変わらずの年を感じさせない好プレイには感心する。
我が父は、脳こうそくで倒れてから、72歳の時にはもう一人ではちゃんと歩けなくなったと
言うのに、このお元気さはどうだろう…デジカメでワンショットして、お話を聞かせて頂いた。
まずはテニスの経歴。まあ、何とこれがすごい。お若い時からされていたとは聞いていたが、小学校の時からだなんて…
しかも華々しいテニス人生を送ってきておられるのだ。
一人で聞くのも勿体ないから、せめてこのDiaryに書きこんでみます。
池田の教育大付属小学校3年生の時、軟式テニスを始める。
5年生の時師範学校(現大阪教育大学)へ遊びに行った。
そこで硬式テニスを始めて見て興味を覚え、自分も試みた。
やってみると、大学生達に旨いとほめられ気分が良かった。軟式を続けながら、硬式も練習したが、そのうち硬式の方が面白くなり関西学院中学部では1年生
から硬式テニス部に入り、本格的に始めた。
当時関学中学部テニス部は、腕の良い先輩達が多く、優勝旗(カップではない)がいっぱいあった。
デビスカップ杯の選手や、後に阪急仁川や 池田に作ったり今も理事長だったりする方達、みなこの
クラブの先輩達だ。さて北川さんは、そういう良き環境の中で練習に励み、近県高等学校(当時関西の方が強かったから
全日本と同意義をもつ)で優勝!その後もアチコチで戦績を残したのを認められ、日本テニス協会から、全国から10名の内の一人に
選ばれ、20日間の強化合宿に参加した。これは日本テニス協会が費用を全部負担して、デ杯のための選手を育てるべく企画されたもので、
コートは大阪ガスの片山社長が作られたアンツーカーの100面コート(甲子園から浜まである)。全国から名だたる指導者を招き、医者(スポーツドクター)も常駐、精神的には座禅なども指導され、
又将来海外でも活躍できるようにと、英会話の教育もあった。そういう恵まれた環境で、メキメキ腕を上げ、いよいよ…という時に戦争になった。
残念な事にその選手達の多くは戦死してしまった。
そして物はなくなり、ラケット、ガット、ボ−ル、靴など皆原料は輸入品なので手に入らなくなって
しまった。ボ−ルのウ−ルを裏返して毛羽立てたり、左足の靴を右に履いたり(右ばかり痛むから)、地下足袋
を履いたり、ガットを絹糸で試したり…と工夫しながら続けたが、ついに北川さんも18年に入隊。
南方への派遣と、捕虜1年を経験して終戦、21年に帰国。さてクラブのテニスコ−トはイモ畑に、100面コ−トは進駐軍の兵舎に変わってしまっていた。
5年のブランクで第一線から退き、繊維関係の商社に就職する。(30歳)
当時繊維業界は大変華やかで、そういう業界が主催する実業団の試合が沢山あった。
2年間連続優勝も果たし、その後は池田五月山、江坂、西猪名、東久代等のテニスクラブでの
ヘッドコーチ、各社のコ−チなどを勤めた。そして今現在、もう自分の趣味だけにしょうと、7年程前からこの川西ロ−ンテニスクラブに入り、週4
回程楽しんでいる。
ということでありました。
道理で、ラケットを意のままに操り、無駄な動きもなくゲ−ムを運ばれる訳が分った。「テニス始めて何年ですか?」位の質問のつもりが、テニス界自体の歴史を教わるようで興味深かった。
北川さん、これからも元気で、コ−トでお会いしましょうね!!!