ニューヨーク郊外

1999年12月6日(月)
 

< 寿命 >

深夜、部屋を片付けながらテレビのスイッチをつけたら、「えんがわ」というタイトルで
女性のおしゃべりを写していた。

4人姉妹の末っ子が77歳。
普段は離れて住むその4人が、時々縁側に集まって言いたいことを言い合ってひとときを
過ごす姿。

ちゃぶ台を囲んで、4枚のざぶとん。
一見、平和で穏やかな情景。時々は笑い転げて和やかな雰囲気。
しかし、ナレーターの言葉は冷静だ。
「若い女の子は、箸が転がっても笑う。しかし老女4人は、『箸が転がらなくても無理に笑う』」

そこへ4人姉妹のお母さんの登場!
何とあの「きんさん・ぎんさん」のぎんさんだ。
106歳! 5人合わせて432歳!

ある日は、「寿命」についてのおしゃべり。
4人の本音は・・・

「長生きしたくない」
「あそこまで(ぎんさんの年まで)は生きたくない」
「あそこまでいったら、さかしまになる(子が先に死ぬ)」
「4人姉妹全員、現在は後家だけど、旦那さんが死んだ時、つくづくおばーさんが代わとったら
 良かったと思った」
「長生きしたって、世の中になーんの役にも立たないで、お世話になるだけ。」
「何の役にも立たんもんを生かして貰っても、周りのみんなが苦労するだけ。」
「長生きしていいやら悪いやら・・・」
「長生きすることは、それだけでおめでたいとは言えない、大切なのは元気なこと。」
「集える場所があることが、心をいやしてくれる」

長生きのお母さんを非難しているのではない。
自分達も元気だからあの年まで生きる可能性は十分ある。
それは自分にとって、幸せだろうか? 又周囲にとってはどうだろうか?
と自問自答しておられるのだ。

結局の所「年寄りが年寄りを看る時代になった。共に見合わなしょうがない。」
「みんなで集える『えんがわ』があること、そして会いたい時に会える元気があることは、
ありがたいことだ。」
ということで、今日も元気な4姉妹はおしゃべりに花が咲く。

私は、長生きするもしないも全て運命だと思う。
いつも健康に神経質でいながら若くして逝く人もあれば、滅茶苦茶不摂生な生活をしていても
長生きする人はする。
神が与えたもうた命ゆえ、また神のお迎えが来るまで自然に逆らわず、精一杯生きるのみだと
思っている。
 

                        
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